「熱意と自惚れと運しかない、それしかない」
これだけ聴くと本当にどうしようもない浮浪者なイメージしか湧いてこないのだが、実際僕の気持ちはいつもそんな感じである。
どこに執着するわけでもなくフラフラと、その時の熱にまかせて行動をしている。
この熱というのは時々変わる、それは時にDaft Pankかもしれないし、デザイン思考かもしれない、はたまた唐突に思いついた服を試着できるサービスかもれないし、Laravelかもしれない。
とにかく熱に取り込まれると大変だ。
何かに取り憑かれたたように熱意の衝動に襲われて、それが出来るか出来ないのかもわからないのに、根拠なき自信だけは沸騰した水のようにボコボコと湧き出てくる。
だから何がなんでも痛い目に合うまでは続ける。
そうなると結果的に主観と根拠なき自信によって自分の頭の中だけの最高な城ができる。外から見ればそれは石コロに過ぎないのだが、それが本当に石ころなんてのも自分じゃわからないから、とりあえずアウトプットする。石でもいいからアウトプットする。
アウトプットしたら周りから評価が貰えるので、実は石コロじゃなかったのか!と気付いて磨く。大分磨いた後は頭から熱が引いているので、また別の熱を探しにいく...。なんてのを延々と繰り返している。どうしようもない。
そんなどうしようない感じで23年生きてきた。
それでもここまで来れたのは運の強さだろうと思っている。
実は最近、この「運」は「人」に置き換えられれんじゃないかな?と思い始めた。
こういう事をしていると、普通はどこからか横槍をなげてくる人がいてそういう人に潰されそうになるのだが、そういうのを見て逆に心配したり、手を伸ばしたりアドバイスをくれたりする人がいる。
昔はもう少しクソ真面目に横槍を頑張ってキャッチして、ちゃんと綺麗に返していたのだが最近はもう横槍を喰らいながら歩いている気がする。或いは僕が気付いてないのか。
なぜかって僕にはそれを気にする暇もないぐらいに今、熱意を持って取り込む事があって、どうしようなく自惚れているので、それに対して全力でアクセルを踏むことができる。そして運よく誰かが「そこはもう少し右に曲がったほうがいいよ」っと教えてくれる。
本当はこの「そこはもう少し右に曲がったほうがいいよ」は、自分で気付くべきなのだがそれを考える度に孔子の「子曰く、吾十有五にして学に志す」を思いだしては、「まぁ孔子が40でやっと一人で迷わず行動できたんだから、それまではあっちこっちぶつけて勉強しよう俺」っという、いつもの上から目線で痛い目に合いながら行動しようという気持ちである。
なので今後もこの熱意と自惚れを捨てずに前に出て行動するという事を改めて表明するという意味で書いてみました。
そんな訳でエンディングにDaft Punkの「Get Lucky」を聞いてお別れてです。
どうぞ
Daft Punk - Get Lucky (Full Video) - YouTube
おわり